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  • ひょっとこ

死にたさに取りつかれた話~死に関する考察もどきを添えて~



どうも、ひょっとこです。

最近死にたい話ばかりですね、このブログ。

もっときれいなことを書けばいいのに。

鳥のさえずりや花の香りの美しさとか。

とはいえそんなものを文章にするほどおしゃれな人間ではないので、

今日も死にたい話をします。

大体我が家で聞こえる鳥の声は大概カラスの声ですし、

花も身近にありません。サボテンはあります。



さて、突然ですが、

死にたさに取りつかれたことはありますか。


毎日毎日死ぬことしか考えられず、

死ぬしかないと、生きていけないと思ったことはありますか。

半年ほど前の私が、まさにそんな感じでした。


当時の私は、死に取りつかれてしました。

家にいる時は一切起き上がれずに、

布団の中で「死にたい」と検索し、

自殺未遂をした方や、死にたい気持ちを吐露している方のブログを読み漁る日々。

楽しいことやおいしいもののことなんて考えられず、

「死ぬしかない」「どうやって死のう」ばかりが頭を占拠していました。

実際に、首を吊ったこともあります。

薬も一気にたくさん飲みました。

それまで自分がどう生きてきたのか、これからどう生きていけばいいのか、

まったくわからなくなってしまうのです。

一分一秒先はもう真っ暗だ、というような気分でした。


それでもこうして生きているのは、いろいろな人に支えられたおかげです。

心配してくれた両親や、

話を聞いてくれた友人たち、

熱心に私を支えてくれた支援者の皆さん、

その他もろもろの優しい人たち。

治療のかいもあって、私はずいぶんと回復しました。


いまだに死にたい気持ちは時々顔を出しますが、

少しだけこの気持ちを飼いならせるようになった気がします。


死にたさの渦に飲まれ、そして少しだけ遠ざかってみた体験を経たうえで

忘れたくないのは、そして忘れないでほしいのは、

月並みな言葉かもしれませんが、

皆平等に生きる価値があるということ。

いや、「価値」というのとは少し違う感覚かもしれません。

厳密にいえば、「価値」なんでものはあってもなくてもかまわないのです。

そもそも、人間の命に価値があるかないかだなんて、簡単に答えは出ない問いです。

答えのない前提を前提とすることは間違いでしょう。


なので、こう言い換えましょう。

皆平等に生きているという事実がある。

事実として、生まれてきて、

事実として、生きています。

そこにいくら抽象的な問いを投げ込もうとも、ただ事実として、私たちは存在して(しまって)いるのです。


もっと前向きな考え方もできるのかもしれませんが、

少なくとも私は、たゆたうようにあるがままに生きていくしかないと、

事実を諦めること、受け入れることでしか生きていけないと思います。

今が事実なのだから。


自分の心に惑わされず、

事実としてここに在る以上、やるべきことをやっていくだけです。

事実唯心というやつです。


とまあ、なんだか悟ったお坊さんみたいな考え方ができるようになっただけでも、

死にたさに取りつかれてみた意味はあったのかな。


死にたい気持ちも、不安も、それはそれとして、

やるべきこと、やりたいことをやっていきたいです。



――と、いつもならここで記事を終えるところなのですが、

筆が乗ってきたので、もう少し掘り下げて考えてみたいことがあります。



それは、「死」とは何か、ということ。



私の人生の中では、「死にたい」という気持ちが大きな要素になっています。

この記事でも、この記事でも、死にたい気持ちについて書いてきました。



「死にたい」という気持ちは、言わずもがな、「死を願う」という意味です。

でも、そもそも私にとっての「死」とはなんでしょう。


筆が乗ってきたのを良いことに「死」について語り始めてしまいましたが、

これは難しい問題です。


多くの哲学者が、死というものについて考えてきました。

キルケゴール、ニーチェ、ショーペンハウアー、ナドナド、エトセトラ、ソノタオオゼイ、

とにかくたくさんの人々が死について考え、

独自の理論を展開してきました。


彼らの思想はそれぞれがとても素晴らしく、

革新的であり、考えを深めさせてくれ、

そして、そして……



小難しい!


そう、小難しいのです。



「死」に関する哲学は、とても面白いものです。

それはきっと、「死」というものが我々にとって平等なものだからでしょう。

ある意味で、もっとも身近なテーマであると言えます。


一方で、いざ死について説く哲学書を読んでみると、

面白さと同じくらいに強烈に襲ってくるややこしさに頭がこんがらがります。

死についての思想は多くが(それに従うか反発するかは別として)キリスト教を基盤としていますが、

私はキリスト教徒ではないので、その感覚をつかまなくてはいけない時点でもうさっぱりお手上げ、ということもありました。

「死」は身近なテーマのはずなのに、なんだかそれこそ議論が天界で展開しているような(笑うところです)、そんな感覚です。



私は頭がよくありません。

頭が悪い者なりに、もう少しシンプルに考えてみましょう。


「死」についての哲学や思想がややこしいものになりがちな一方で、

「死」の定義は明確です(生物学的に観察することのできる「死」に限ってですが)。


人体が生命活動を停止した状態。


それが「死」です。

私は霊体というものを信じていないので、

「死」=細胞の機能停止=無だと思っています。

「死」=「無」、なんとも手垢のついた考えですが、

私は現象として「自分が無になること」が死だと思っています。


はい、いたってシンプルです。

私が無くなる、それが私にとっての死です。

誰かが私のことを覚えてくれていようといまいと、

私はもうすでに「無」なのですから、

それを知ることも、感じることもできません。

ただ、すべてが「無い」。それが、死後の状態です。



……さて。

皆様もお気づきのことでしょう。


こんがらがってまいりました。


とにかく、整理をすると、

私の中では「死」=「無」であり、

すなわち私の「死にたい」は「無になりたい」ということだということです。


ここで、頭の中で声がしてきます。

……本当に、そうなのか?

私は「無」になりたいのか?

ともすれば、私は「死にたい」のではないんじゃあないか?

「死にたい」よりももっと適切な言葉があるんじゃないのか?


正直、「無」になりたいのか、と尋ねられると、

すぐに「はい」とは答えられません。

それでは、私の抱えるこの感情はなんなのでしょうか(結局私の話になってしまってごめんなさい)。



「楽になりたい」?

たしかに楽にはなりたいです。ですがこの言葉では漠然と意味が広すぎます。

「いなくなりたい」?

たしかにいなくなりたいです。

ですが私は私の力でこの苦痛を終わらせたいのであって、受動的にいなくなることは望みません。

「生まれてこなければよかった」?

これは違います。

私は、私がこれまで生きてきたという現実自体を無に帰してしまいたいわけではありません。



……さて。皆様もお気づきのことでしょう。

さらにこんがらがってまいりました。


私は、今まで私の感情を「死にたい」以外で表してきませんでした。

私は私が死にたいものだと決めつけて生きてきました。



ですが、この記事を書いている中で、もっとしっくりくる言葉がどこかにあるのではないかと考えるようになりました。


その言葉を探しながら生きていくのも悪くないかもしれません。



さて、長くなってしまいました。

ここまで読んでくれた方はいらっしゃるのかしら。

「最後まで読みました!」という方にプレゼントでもあげたい気分。



結局この記事の中では何の結論も出せませんでしたが、

たまにはこうして考えてみるのも悪くないですね。

正直、私は「死」についての勉強がまだまだ足りていないと思います。

色々な本は読んでみても、それをかみ砕いて消化できていない心地です。


あと人生数十年、死にたい気持ちを理解するために生きてみるのも悪くない。


それでは、終わります。


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