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  • ひょっとこ

「死にたい」と生きる

ひょっとこです。

少し暗い話をします。

※死にたい人へ

もしかしたら、この記事を読んでいる人の中に、

死にたい思いを抱える人がいるかもしれません。。

この記事は私の自分語りの記事なので、もしかしたら私の文章が煩雑に感じられるかもしれないし、

ひょっとすると私と同じ気持ちで、共感とともに文章をたどってくれる方もいるかもしれません。

いずれにしても、まずは、自分を大事にしてください。

耳にタコかもしれません、かえって神経を逆なでする言葉かもしれません。

でも、きっと「死にたい」とまで思ったことのあるあなたはお気づきでしょう。

最終的に自分を大切にしてあげられるのは、自分だけなんです。

前向きでなくとも、何もできなくても、なんでもいいです。

酷かもしれませんが「存在」していてください。

少しだけ、お茶を飲んだり、深呼吸してみたり。

少しずつ少しずつを積み重ねましょう。

あなたの「死にたい」をひっくるめて、「存在」していてください。

さて、タイトルにも書きました「死にたい」という言葉、感覚、感情。

私にとっては、身近なものでした。

昔から、漠然と「死にたい」と思うことが多々ありました。

本気だったのかはわかりませんし、

本気じゃなければいけないとも思いません。


私は少しだけ、人よりも不器用で、不安になりやすいのかもしれません。

不安はあれやこれや、現実的なものからスピリチュアル的なものまでさまざまある。

それをまとめて表せる言葉が、「死にたい」でした。

不安をなんとなく、「死にたい」と表現することには、不思議な痛快さと安心がありました。

中学、高校と、私は漠然とした不安を「死にたい」と表現していました。

いわば、「『死にたい』と戯れる時期」でした。

「死にたい」と遊ぶのは楽しいのです。

自分が自死した時のことを妄想してみます。

煩わしいことからは全ておさらばです。

両親は悲しむでしょう。

お葬式にはなんの曲が流れるでしょうか。棺桶には何を入れてくれるでしょう。

そう考えることが、生きるのが苦手な私の頓服になっていたのです。

しかし、年を重ねていくごとに、そうもいっていられなくなりました。

私は「死にたい」のかわいい側面ばかりみてかわいがるだけかわいがり、

その生々しい痛みや不安には触れずに、対処せずに生きてきました。

いわば、自分の「死にたい」気持ちをネグレクトしてきたのです。

結果として、私の「死にたい」は必要な対応をされず、どんどんと厄介な方向へ大きくなっていったのです。

そして、私は、自分の育てた「死にたい」という気持ちに飲み込まれました。

「『死にたい』に圧倒される時期」です。

ロシアで、クマを育てていたら最終的にそのクマに食べられてしまった男性がいましたが、

まさにそんな感じ。

私の味方であったはずの「死にたい」は、1年ほど前からいつの間にかとげとげと姿を変え、

数か月前には、私の絶望を全部まとめた、「死ぬしかない」という形になり、私を飲み込みました。

もはや恐ろしい、得体のしれない感情になってしまいました。

私はそれにおびえて、それに従おうとし、

首を吊りました。薬をたくさん飲みました。

でも死ねませんでした。

客観的には、鬱病でした。

いろいろな人の協力もあって落ち着いてきたころ、私は腹をくくり、決めました。

私の「死にたい」にきちんと向き合って、この子を育てなおそう、と。


今は、「『死にたい』を知る時期」だと思っています。

私は、この気持ちについてもっと知りたいのです。

最近は、死や自殺についての本をよく読みます。

決して自死を実行するためではありません。

私の中の気持ちにきちんと向き合ってあげるために、知識が必要なのです。

私は私の感情を知り、適切に受け止めてあげなくてはいけないのです。

とにかく、いろいろ勉強中です。

本棚には、生や死や自殺の本がずらりと並んでいます、

いずれ、「死にたい学」の学祖にでもなろうかな。

そういうサイトも作りたいです。

以下、本当に死のうとしたときに書いていた遺書を残しておきます。 

情けないことばかり書いていますが、結構名文だと思うんですが、どうでしょうかね。






遺書


自分が死んだあとのことを考えて、何かを書くのは不思議な感覚です。

だって、本当に自分が死んだあとのことを考えるのなら、まず自殺なんてしないはずだから。

いろんな人に迷惑をかけるのはわかっています。

もしかしたら、悲しんでくれる人もいるかもしれません。

でも、それは結局私がいなくなった後の世界のことだし、と思ってしまいます。

私は自己中心的な人間なのでしょう。

ただ、私がいなくなった後の世界(というのも、仰々しい言い方ですが)に、少しだけ遺しておきたいあれやこれやもある。

それを遺書として書こうと思います。

私は、死にたいわけではありません。

むしろ、楽しく生きられるなら、そっちのほうが全然いい。

私は、楽しく生きたいです。

ですが、どうやらそれは不可能なようです。

私はもう社会人ですし、責任もあります。

とにかく、私は大人になれませんでした。

本音を言えば、自分の好きなことをして遊び、好きなことだけを学び、好きな人と過ごし、好きに生きたい。

それ以外の生き方は私にはできない気持ちなのです。

社会の規範にのっとり、人のために労働するということが、私には途方もないことに思われるのです。とてもできない。

なんという堕落した人間なのでしょう。

こんな奴をのうのうと生かしておけば、親類にも迷惑をかけますし、いずれにせよ、そんな生き方は許されないのだから、不可能なのだから、

それならば、死ぬしかないと思いました。

何か方法はあったような気がします。

私がもう少し頑張って大人になってみるだとか、

いっそ自分が堕落した人間であるということを認めて親類や国民の皆様方に援助をお願いするだとか、

自分にあった働き方を見つける努力をするだとか。

ですが、どれもできません。

きっと、できないのです。

何もできる気がしないのです。

私の人生は。もう終わったとさえ思いますし、

私ははっきりと、私に対して「もういらない」という感覚を持っています。

こうして自ら死ぬのが、私らしい生き方であると思います。

私は私らしい生き方を全うするために死ぬのです。

正直、死の決心がはっきりとついたわけではありません。

前にも書いたように、私は楽しく生きられればそれが一番なのですから。

でももう、何もできません。

楽しめることがなんなのかもわかりません。何も楽しめないような気もする。

小さな楽しみはあっても、今のところ死のほうがよほど魅力的なのです。

何かにとりつかれてしまったようなのです。

私は、わけがわからぬまま死んでいきます。

それでいいんだと思います。

私はこの命に責任を持たなければなりません。

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